北条泰時が推進した「徳政」と「御成敗式目」
「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」⑬
北条泰時亡き後、暗闘の末に迎えられた親王将軍
孫娘を女御(にょうご)として入内させたというのに、四条天皇がわずか12歳で急死したため、九条道家(くじょうみちいえ)の計算に大きな狂いが生じた。
次の天皇の候補は順徳(じゅんとく)上皇の皇子の忠成王(ただなりおう)と土御門(つちみかど)天皇の第3皇子の邦仁王(くにひとおう)で、道家は血縁関係のある忠成王を推したが、忠成王を即位させれば、後鳥羽と同調歩調をとった順徳を京都へ呼び戻す恐れが高く、幕府としては断じて認められない。
それならば、北条泰時の異母姉を妻とする土御門定通(さだみち)が庇護者(ひごしゃ)を務める邦仁王しかいないというので、11日間の空位を経て、仁治3年(1242)1月20日には邦仁王に践祚(せんそ)をさせた。これが後嵯峨(ごさが)天皇である。
北条泰時が死去したのはそれから5か月後で、執権の職は孫の経時(つねとき)に継承されるが、経時はこのとき19歳。25歳の将軍・頼経は6歳年上であり、若い経時に上手く頼経を操ることができるのか危ぶまれた。
北条一門のなかにも反経時勢力があっただけに、経時は名実ともに自身が有資格者であることを示そうとしたが、寛元2年(1244)4月、頼経の6歳になる子息・頼嗣(よりつぐ)が元服したときをとらえて、将軍職をも頼嗣に引き継がせた。
それからの頼経は仏道にのめり込んだかと思えば、何度も帰京を延期するなど、不審な行動が多かった。
口さがない者が呪詛(じゅそ)の嫌疑をかけるなか、経時が重い病を患い、寛元4年3月23日にはもはや回復も延命の見込みなく、2人いる息子はまだ幼すぎると言うので、執権を弟の時頼(ときより)に譲ると宣言した。
経時は4月19日に出家を遂げ、閏(うるう)4月1日に永眠した。
詳細は不明ながら、それから1か月半にわたり、鎌倉では暗闘が繰り広げられた。時頼の追討を企てたとして北条光時(みつとき/泰時の甥)が出家させられたのを手始めに、6月1日には光時の弟・時幸(ときゆき)が自害、7日には光時一味とされた評定衆(ひょうじょうしゅう)4人が罷免(ひめん)された。追って光時は伊豆国江間(いずのくにえま)へ流され、一味の千葉秀胤(ひでたね)は上総国(かずかのくに)への追放の身に。一同の所領はことごとく没収された。
さらに、暗闘を引き起こした陰謀の陰に前将軍・頼経の影が見え隠れしたことから、7月11日には頼経を京へ追い返す。これと前後して、鎌倉では藤原将軍に代わり、親王将軍を迎える案が浮上する。
使者のやり取りを繰り返したあげく、選ばれたのは宗尊(むねたか)親王。後嵯峨天皇の第1皇子だが母の身分が低いため皇位継承の可能性は低かった。彼の鎌倉入りと入れ替わりに、5代将軍・藤原頼嗣(よりつぐ)は京都へ追い返されたのだった。
監修・文/島崎晋
(『歴史人』2022年12月号「『承久の乱』と『その後』の鎌倉幕府」より)
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